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更新日:2026年06月04日 20時38分
第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)8月11日(土曜日)午前10時 20分頃、米軍による久留米市街地を標的とした空襲がありました。
太平洋戦争末期の昭和20(1945)年1月から8月にかけ、米軍による空襲は激化の一途をたどりました。
最終的に空爆を受けた都市は200以上にのぼり、その中のひとつが久留米市です。
当時から久留米市はゴム産業が盛んで、鉄道の拠点でもあり、また、陸軍の司令部や軍の施設が所在することから、九州で最も重要な目標都市のひとつと考えられていました。明治22(1889)年に全国最初の「市」のひとつとして誕生した久留米市は、早々に陸軍を誘致し「軍都・久留米」として発展していました。
空爆にあたり、米軍は、伝単(空襲を予告するビラ)を空から各地にばらまきました。ビラには「次の標的都市」として12都市の名が記載されていましたが、その中に「久留米」の名前を見ることができます。このビラは、7月27日と31日の夜に、マリアナ諸島のB-29の部隊から久留米上空に撒かれました。

伝単(次の標的都市を予告するビラ)(久留米市文化財保護課提供)
昭和20(1945)年8月11日(土曜日)午前10時 20分頃、B-24爆撃機から焼夷弾、機銃掃射の雨が降り、久留米市街地は猛火に包まれました。
投下された焼夷弾は合計で159トン。木造家屋が立ち並ぶ市街地に大火災を巻き起こしました。
この間、わずか20分余り。
金丸小学校付近の被害が最も大きく、久留米市街地は焦土と変わり果てました。

空襲2日後の昭和20(1945)年8月13日に、米軍によって撮影された市街地(ピースフルくるめ推進協議会提供)
死者は、212人(214人ともいわれる)
重傷者は、67人
軽傷者は、93人
収容中死亡者は、16人
罹災戸数は、4506戸(市総戸数の26.5%)
罹災者数は、20,023人(市総人口の25.9%)
罹災面積は、157ヘクタール(市総面積の5.5%、市街地の60~70%)
(「続久留米市誌」下巻より)

戦争焼失区域図(小澤 太郎氏提供)
以下の図書は、久留米市立図書館で閲覧可能、一部は貸出も可能です。また、久留米市内の指定文化財や歴史的に大切な事物(歴史遺産)を紹介する『歴史散歩』にも、戦争遺跡について掲載しています。