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脈々と受け継がれる、久留米のものづくり

更新日:202012020943


製造業発展の礎

 明治22年「久留米市」が誕生。
 明治30年、歩兵第四十八師団司令部が、その後第十八師団司令部が設置された。道路が整備され、兵員の家族親類が数多く訪れるため観光産業が発達した。
 交通網の整備は、絣や足袋といった地場の製造業の発達を促す。足袋産業は地下足袋の開発によりゴム製品生産へとつながり、さらに製造業が発展していく。

絣と蒸気機関、久留米が輩出した幕末の発明家

久留米絣  製造業発展の萌芽は、幕末の久留米藩に見られる。久留米藩は、殖産興業を掲げていた。その主要産業の一つが絣で、慶応元年(1868年)ごろには年間6万反を藩外へ「輸出」して大いに藩の財政を助けた。
 その久留米絣を発明したのは、わずか12~13歳ぐらいの少女・伝。伝は、それまで地味な紺一色だった生地に白い模様を織り出し評判をとった。結婚して井上伝となったが夫と死別、伝は機織りとしてさらなる挑戦を重ねていく。
 木や風景などを布に織り込む「絵絣」を何とかうまく織れないかと思案した伝が相談したのは「からくり儀右衛門」とあだ名されていた田中久重だった。伝26歳、久重15歳。わずか9歳で「開かずの硯箱」を作るなど奇想天外なアイデアで周囲を驚かせていた久重は、工夫を重ね、伝の要望に応えたという。
 久重は、佐賀藩に招かれ、日本で初めて蒸気機関の汽船・汽車の模型や西洋式大砲を製造。一時は久留米藩でも大砲製造などに携わった。その後上京し、株式会社東芝の前身となる電気機械製造の工場兼店舗を開業。その看板にいわく、「万般の機械考案の依頼に応ず」。久重の、「ものづくり」への気概が伝わってくる。

足袋からスニーカーへ。たゆまぬ開発と開拓

つちやたび初期販売分  明治維新を迎え、家禄というかたちの俸給を失った士族の家族のなかには、久留米絣の機織りを内職とするものもいた。久留米絣ブランドの確立、品質向上のため工程は分業化され、機織り工場も開設された。まだ、「手工業」ではあったが、「ものづくり」都市・久留米は「ゴムのまち」と呼ばれるようになる。
 明治6年、ムーンスターの前身である「つちやたび」が誕生。
 創業者倉田雲平は、もともと足袋職人。足袋以外の軍需品供給に乗り出して大失敗し、無一文になってからは、足袋一筋に事業を拡大していった。
 明治27年、日本で初めてミシンを使った足袋の大量生産を開始。
 大正7年、3代目社長に就任した倉田泰蔵は、アメリカ製のキャンパスシューズをヒントに足袋にゴム底を張り付けることを思いつく。
 この地下足袋開発は、その後の運動靴開発につながる。昭和の初めごろからは、月星マークを掲げて輸出を開始。社名は変わっても、たゆまぬ研究開発を重ねる姿勢は変わらず、今日のムーンスターへとつながっている。

履物界の一大革命、久留米発のイノベーション

しまや1号地下足袋  「つちやたび」創業から19年後の明治25年に創業した仕立物屋「志まや」はアサヒシューズの前身。
 創業者石橋徳次郎の二人の息子たち・重太郎(のちに2代目徳次郎)、正二郎の時代に足袋専業となった。
 当時の足袋は必需品であり消耗品。商品の回転が速い。足袋の市場拡大を見込んだ正二郎が足袋専業を決めた。
 事業発展の秘策として、志まやは全サイズ均一価格を打ち出す。サイズごとに価格が違うのが当たり前だった当時、これは画期的戦略だった。
 大正7年には、個人商店を改め「日本足袋株式会社」を創立。
 大正9年株価が暴落、不況の中で大量の在庫を抱えることになる。
 経営陣は、工場閉鎖やリストラではなく、新たな商品をつくることだけを考えた。苦境を乗り切る策は、マーケティング、顧客ニーズの情報だ。足袋に求められるのは、丈夫で長持ち。正二郎は、アメリカ製のテニス靴を参考に貼付式地下足袋を考察した。
 当時、履物界の一大革命と言われた地下足袋を、奇しくも久留米の2つの会社が同時期に開発したことになる。

初めての純国産タイヤ、久留米から世界へ走る

純国産第一号タイヤ開発時  地下足袋に欠かせないゴム。ゴム製品で今後大きく伸びるものは何だろう。新たな挑戦を正二郎は始めようとしていた。
 アメリカなどの状況から、将来自動車の需要が伸びると確信した正二郎は、国産タイヤ製造を決意。
 昭和4年、世界恐慌の真っただ中に、日本で初めて純国産タイヤの試作が始まった。
 昭和5年、国産タイヤ第1号が完成。商品名は将来の輸出を想定し、英語名に。姓の石橋から「ストーンブリッヂ」、語呂がよくないということで「ブリッヂストン」、これが翌年社名となった。
 昭和6年 ブリヂストン創業。
 タイヤづくりは決して順風満帆とはいかなかった。
 しかし、返品とクレームの山を築きながらも改良を重ね、昭和7年にはついに、商工省から優良国産品の認定を受けるほどに。
 昭和9年には、ブリヂストン久留米工場が操業を開始。今やグローバル企業に成長したブリヂストンのマザー工場として稼働している。
 正二郎はまた、教育や文化の向上に強い関心を寄せていた。
 九州医学専門学校(現久留米大学医学部)の土地・校舎の寄贈や美術館や文化ホールを擁する石橋文化センターの建設寄贈
のほか、子どもたちの楽しみと体育向上のため、久留米市内の小中学校21校にプールを寄贈するなど、久留米のまちのそこここに、正二郎が残した地域貢献のあとを見ることができる。

努力を重ね技術を磨く、多種多様な久留米のものづくり

 近代の産業発展を支えたゴム3社の存在などを背景に独自の進化を遂げてきた久留米のものづくり。現在、出荷額にして年間約3,000億円、域内総生産の約1割を占める。その内訳は、機械、電子機器、化学、食品と、ゴム以外にも実に多種多様だ。
 それぞれが、変わり続ける社会環境と顧客ニーズに応えるべく努力を重ね、今日を築いてきた。業種・業態に関わらず、そこには一貫した姿勢がある。
 常に「さらなる高品質」「さらなる満足」を求め続ける、ものづくりの心意気だ。150年近く前、田中久重が胸を張って言い切った「万般の機械考案の依頼に応ず」の言葉通り、技術を磨き、顧客の困りごとを解決してきた久留米のものづくり企業。静かに、しかし確かに、久留米のものづくりが、輝きを放つ。

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