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消防団の歴史 

更新日:201502121449


久留米市消防の沿革

有馬火消しの由来

 有馬藩は徳川幕府の4代将軍家綱の時代即ち寛文8年(1668年)4月、3代藩主頼利が芝増上寺火の御番を仰せつけられて以来、11代藩主頼咸の時代、即ち文久年間(1860年代)まで約200年にわたり代々その職に任じられ、その活動の功績が多かったとして幕府より度々表彰された。
 従って、領内久留米における消防施策も熱心となり、郡奉行、町奉行を中心とする武家火消しの他に所定の町人を以って組織する町火消しが生まれて水火消防に従事する等、有名な久留米消防の誇りとする有馬火消しが生まれたのである。
 また、筑後川を抱えた久留米藩は、藩政時代から水防対策についても積極的に取り組んでいたようである。
 現代の町火消しである久留米市消防団による梯子のり演技は「有馬火消し」の伝統を今に伝えるものである。

 有馬藩が芝増上寺の「火の御番」を仰せつかった理由として次の如き説あり。
 有馬藩の上屋敷は赤羽橋を渡った対岸にあって、増上寺にはこの橋を渡って赤羽口より参内できた。また、有馬藩上屋敷内には水天宮の杜を祭り小高い丘に当時既に火の見が設けられていたという。火の見は当時江戸市民に「高いもんだ有馬の火の見」と評判になっていたという。

参考資料:「久留米市消防のあしあと」より抜粋

消防団の発足

 官民一致協力して消火防水に尽力し、明治24年に至り各町の消防組を統一しようとの機運が高まり、全市から新組織委員29人を選び、その方法を研究させ、同年7月1日に久留米市消防組規約が制定、実施されるに至った。
 翌25年度には久留米市は消防組に補助金を交付し、各組に1台づつの腕用ポンプを新調させている。

昔ながらの腕用ポンプ

 明治27年2月、国は勅令第15号をもって消防組規則を公布したため、福岡県においても消防組規則施行組則を定め、久留米市においても国の規則に準じて370名余による公設消防組が認可された。
 その後、時代の推移と共に市勢も拡充され、消防組もその都度、組織機構を充実させながら、、昭和13年4月、久留米市に初の常備消防隊が設置された。
 昭和14年1月当時の国内情勢を反映して、消防組規則が廃止され、新たに警防団令が公布された。同年4月に消防組は警防団に改組され、以後第2次世界大戦終結まで防空、防災の任務に当たった。
 昭和22年4月警防団令が廃止となり消防団令が公布されたので、従来の警防団は解消し、同年10月1日、12個分団、団員620名をもって久留米市消防団が新発足したのである。

参考資料:「久留米市消防のあしあと」より抜粋

消防恩師 宗像警部

消防恩師 宗像警部   宗像警部は、旧細川藩士宗像景員の長男で名を小文太と称し、明治33年福岡県警官となり、大正5年に消防主任となり、全生命を傾注して消防の刷新に努力された。
 当時久留米市民は火災の脅威に怯えており、市民を安心させることが消防職務上の急務で、まず、一般市民に対して日夜防火宣伝に奔走し防火思想の普及を図り、消防意識を注入すると共に消防組自体の一大刷新を5つの目標を立てて実現に着手された。
 一、旧態を打破し有為の人材を得ること
 一、この有為の人材を組織的に訓練すること
 一、消防機械器具の普及とその改善を図ること
 一、消防水利を充実すること
 一、消防組員の奨励・褒賞と救済を図ること
 以上の5つの項目を立て、実現に着手された。
 警部は決死的な努力で消防組の改革を行い、精神的訓練と規律的観念の養成に鋭意努力の末、組員の素質向上を成し遂げ、水道敷設により水利問題も解決されるなど、我身を顧みず久留米消防に奔走されたが、享年51歳の若さで逝去された。
 この功績を讃え、瀬下町水天宮境内に銅像を建立し、その偉業を後世に伝える。

参考資料:「久留米市消防のあしあと」より抜粋

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