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久留米の歴史(南北朝時代)

更新日:202110261046


九州南朝と久留米「九州南朝盛衰のカギであった久留米」(南北朝時代)

筑後川合戦の絵図

三谷有信画「筑後川合戦図」(久留米市教育委員会蔵)

鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇が1334年(建武1年)に貴族主体の政治を開始しました。しかし、足利尊氏は反乱を起こし、1336年(建武3年・延元1年)に光明天皇を立てて京都に北朝を開きます。一方で、後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県)で南朝を開き、57年間も2つの朝廷が争う南北朝時代が始まりました。
後醍醐天皇が派遣した征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)懐良親王と彼を支える菊池一族は、15年もの歳月をかけて九州最大の武力を持つ少弐(しょうに)氏を退け、大宰府を制圧。以後11年間、南朝は九州を支配しました。久留米は、大宰府に対する最前線の場所であり、多数の遺跡や伝説が残っています。
上の筑後川合戦図は、筑後川の戦いを描いたものです。筑後川の戦いは、大保原(大原)の合戦とも呼ばれており、関ケ原の戦いと川中島の戦いに並ぶ日本三大合戦のひとつです。1359年(正平14年・延文4年)に北朝の少弐頼尚が挙兵し、筑後川の「杜(もり)の渡し」まで兵を進めて高良山に迫り、8月6日大保原(現在の小郡市)で大きな合戦となりました。
詳細な内容については、「九州南朝と久留米「九州南朝盛衰のカギであった久留米」PDFファイル(645キロバイト)このリンクは別ウィンドウで開きます」をご覧ください。

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