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「ドイツさんと久留米」(久留米俘虜収容所のエピソード)

更新日:201911151700


「ドイツさんと久留米」連載開始します(全8回)

ドイツさんと久留米のイメージイラストドイツ人捕虜の誕生会の様子

ドイツ兵捕虜の誕生会の様子。サクラビールとキリンビールで乾杯。

(久留米市教育委員会所蔵、以下特に断りのない限り写真は全て久留米市教育委員会所蔵)

  かつて久留米にはドイツ兵俘虜(ふりょ)収容所がありました。今から約100年前、第一次世界大戦時のことです。国内最初で最大規模の収容所として設置され、1,300人を超える戦争捕虜(注釈1)を収容していました。
 収容所はハーグ条約に基づいて運営され、捕虜は人道的に待遇されていました。将校には日本政府から給料が支払われており、下士官以下へも衣食住が支給されていました。本国からは義援金が届き、家族からの仕送りもありました。捕虜たちは安定した暮らしを送り、元の職業や特技を生かした多彩な活動を行っていました。
 ドイツ兵(注釈2)と当時の久留米市民は友好的な関係で、様々な交流の場面がありました。市民は彼らに親しみを込めて「ドイツさん」と呼んでいたといわれます。「ドイツさん」たちは、工業・文化・スポーツなどの分野で、近代ヨーロッパの進んだ技術や経験を持っていました。これらは、久留米の文化や経済・産業の近代化に重要な役割を果たしています。
 この連載では、その歴史をひも解き、様々なエピソードを紹介しながらテーマごとに8回に渡って書き下ろします。


(注釈1)戦争捕虜について、わが国では日露戦争から第二次世界大戦まで「俘虜」を公式用語としている。しかし、近年では「俘虜」は使用頻度が低くなじみがないため、本連載では「久留米俘虜収容所」などのような当時の固有名詞以外は、原則として「捕虜」を用いる。
(注釈2)収容当時の捕虜の国籍は、厳密にはドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国である。また、第一次世界大戦終了後に両国以外の国籍となった人々も含まれている。本連載では、便宜上「ドイツ兵」「ドイツ捕虜」と表記する。

テーマ掲載予定日

第1回 「ドイツさんはビールがお好き」 11月 1日(金曜日)
第2回 「ドイツさんが久留米にやってきた」 11月 8日(金曜日)
第3回 「ドイツさんの日常生活」 11月15日(金曜日)
第4回 「ドイツさんの楽しい遠足」 11月22日(金曜日)
第5回 「ドイツさんの文化スポーツ活動」 11月29日(金曜日)
第6回 「ドイツさんと第九演奏」 12月 6日(金曜日)
第7回 「ドイツさんは、どこにお勤め?」 12月13日(金曜日)
第8回 「ドイツさんが残した大きな足跡」 12月20日(金曜日)
番外編 「写真集:ドイツさんが出会った久留米の人々」 12月27日(金曜日)

第3回「ドイツさんの日常生活」

収容所の下士卒用バラックの内部

収容所の下士卒用バラックの内部

収容所の住環境

 統合された新しい久留米収容所は、衛戍病院の臨時病棟を再整備したものです。板塀で囲まれた敷地は、約31,000平方メートル(久留米球場グラウンド2.5個分)。将校用のバラック2棟と同食堂1棟、下士卒のバラック15棟と事務所や食堂、台所、洗濯場、洗面所などの木造バラックが密集しています。建物自体も日本人向けに造られていたため、体格の大きいドイツ兵たちには全てが小さく、かなり窮屈で不満も大きかったようです。収容所側も「戦時臨時の構築物である急造病舎なので、経年とともに破損が次々に発生し、常に応急修理が必要で、あるいは冬場の暖房設備がなく、または、便所の構造が不完全で居室に接近していることなどは、常に不平の種となった」(「大正三年乃至九年戦役俘虜取扱顛末」を現代語訳)と、居住環境の悪さを認めています。将校には部屋が与えられましたが、下士卒のバラックでは長さ55メートル、幅7.2メートルの空間に80人が詰めこまれています。これではベッドと物入れを置く程度のスペースしかありません。もちろん隣人との間には仕切りがなく、厳しいストレスに曝される日々でした。

「どうか一時間だけでもひとりになれないだろうか。すべての人々から離れて」(「フィッシャー回想録」生熊文訳)

捕虜の一日

所内の広場や散歩道を散策する捕虜の写真

 熊本収容所から久留米収容所に移ってきたばかりのエーリッヒ・フィッシャーの日記には、大正4年(1915)6月17日の項で、久留米収容所での一日が描かれています。

「早朝6時、『広場』でシグナルを四回鳴らす日本の衛兵所のラッパで起床、まもなく歩哨がやって来て、まだ寝床でウナギみたいに寝ている人間にも、いやというほどはっきり起床時刻だと分からせる。7時にまたラッパが鳴り、今度は閲兵だ。全員いるかどうかバラックの長老が確かめて、日本人から命令権を与えられている最年長の准士官に伝えに行く。次にラッパが鳴るのは7時半だ。コーヒーを取りにいく(中略)。ラッパは9時にもう一度鳴る。一般兵卒はジャガイモの皮むきや労働勤務に就かなければならない。その後12時まで三時間ほど、反吐をもよおすこのラッパから解放される。12時に食事当番が食事を取りにいく。ここの食事はまったく申し分なく、変化に富んで良く調理され、量も十分ある。ただ、肉とジャガイモばかりなので野菜が少ない。夕食には時々卵が出る。夕方6時にまたラッパで邪魔される。総合点呼で、これは日本人将校が行う。全員バラックの前に整列しなければならない。午後6時半が夕食だ。一般兵卒は9時、僕ら下士官は10時、将校は11時頃就寝しなければならない。」(「フィッシャー回想録」生熊文訳)

 一見、単調な毎日のようにも見えますが、収容所側の報告からは、捕虜それぞれが心身の健康に留意し、解放に向けての希望を胸に日々を過ごしている様子がわかります。

「雨が降らない限りどのような天候でも戸外に出て運動し、なすことなくバラック内のベッドで横になっている者は少ない。例えバラック内にいる時も、語学や数学その他の勉強に励み、その努力は驚くべきものだ」(「欧受大日記」を現代語訳)。

【写真】所内の広場やプロムナード(散歩道)散策は生活の一部

日々の楽しみ

母からの仕送りを食べるドイツ人捕虜の写真

 生きていく上で不可欠な食事は、捕虜たちも楽しみの一つ。将校たちは日本政府からの給料で食事や食料を買い求め、下士卒には給食的な賄いがありました。収容当初は付近の料理店が食事を請け負っていましたが、日本人の料理は捕虜の口には合わず。食事への不満を口にする者が少なくありませんでした。そのため収容所開設の1ヶ月後には、コック経験者が担当となって自炊を開始しました。先のフィッシャー回想録にもあるように、味もボリュームも大いに改善されたようです。ただし、大量のジャガイモの皮むき等の下ごしらえは兵士の当番制で、作業を手伝おうとしない下士官との間にトラブルも発生。
 食事以外では、故郷からの手紙や小包が何よりの喜びで慰めとなったようです。ただし、発信数の制限や検閲がありました。大量に送られてきた場合は検閲に時間がかかり、捕虜の手元になかなか届かないこともあったようです。面会は週に一度、30分間が認められており、日本や中国在住の家族や知人たちが訪ねてきました。将校の婦人7名は、子供らとともに久留米収容所近くの借家に移り住んで、面会に通いました。
 単調な日々が続く収容所生活を彩るために、植物の栽培や鳥の飼育も盛んでした。ヘチマ等は夏の暑さを凌ぐグリーンカーテンになります。家鳩に至っては、当初4羽だったのが、3年後には約500羽に急増しています。時に家鳩は食用にもなりました。鳩の他には、鴨やカナリヤ、文鳥などが飼育されていました。これは、ペットによる癒しを捕虜たちが求めていたからでしょう。

「ここで耐え難いことは単調さだ。木塀以外見る物がない。いつも同じ人間ばかり。木塀の向こうの木が数本とずっと遠くの丘陵だ。」(「フィッシャー回想録」生熊文訳)。

【写真】母からの仕送りの包みに入っている食べ物は最大の楽しみ

ドイツさんの日常の様子のイラスト

第2回「ドイツさんが久留米にやってきた」

画像

  ついに久留米にドイツさんがやってきた!青島要塞を陥落させたのは久留米の第十八師団。捕虜となった彼らは久留米駅へ到着、その姿を一目見ようと市民が殺到します。一方のドイツ兵捕虜にとっても初めて見る日本の町。ドイツさんの目から見た久留米の街並みや子どもたちの様子や、久留米収容所の変遷をたどります。

第1回 「ドイツさんはビールがお好き」

ビールの飲むドイツ人のイラスト

 ドイツ人にとって、ビールは命そのものだともいわれます。捕虜収容所内ではアルコールの制限が緩やかで、中でもビールは下士卒まで飲むことが許されていました。嬉しい時、悲しい時、苦しい時、彼らの希望をつないだのは、ビールだったのかもしれません。ビールをめぐるエピソードと彼らの思いを日記や回想録からご紹介します。

第1回「ドイツさんはビールがお好き」PDFファイル(2816キロバイト)このリンクは別ウィンドウで開きます

 

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